「私が見える?」: あなたは誰ですか、と問い掛けること

 

菅波美穂

 

このプロジェクトは、さまざまなテクノロジーを使わないで、インターラクト(interact)ができる作品、すなわち、対話ができ、それと戯れることができる作品を作ることからはじまりました。

インターラクティブというと、コンピューターで作られたイメージとバーチャル・リアリティーの中で戯れたり、ビデオ・インストレーションによる三次元空間のシュミレーションなどを想像しがちです。あまり、「伝統的」な手法を用いて作られた「静的(static)」なものを想像することはないでしょう。

 しかしながら、触るための彫刻シリーズを展示したとき、鑑賞者が彫刻にふれることによって、作品と鑑賞者の間にある種の対話(interaction)がおきていることに気がつきました。このような内的対話は、コンピューターによって投影されたイメージが鑑賞者との相互作用によって劇的に変化する場合と比べると、外面的変化が伴わないだけに、地味であり、あるのかないのかわからないでしょう。しかし、対話は存在しているのです。

 この点について、もう少し詳しく論じてみましょう。

 まず第一に、芸術作品は実は「対話」を前提として制作されているということに気づく必要があります。芸術作品は「鑑賞される」ことを目的としています。この「鑑賞」ということの意味を考えてみると、実は、単に作品を見るだけ、制作者の意図を読み解くだけ、という単純な作業ではないことがわかってきます。

 私たちは、作品を前にして、「これは何を意味しているのだろう」と問いかけ、作品から答えを得ようとします。すなわち、私たちは作品と対話を試みているのです。また、この時、どのような意味付けを作品に対してできるのか、ということは、必ずしも固定はされておらず、その時の精神状態、体調、身体運動、などによって、かなり左右されます。たとえば、子どものときにモナリザを見たときと、大人になってから見たときでは、その感じ方はかなり違ってくるはずです。もちろん作者の意図を読み取ることをその鑑賞の目的とすることもあるかもしれません。しかし、最近の研究で明らかになってきたように、作品そのものが複雑な意図のもとに制作されており、読み取り方によって、さまざまな解釈ができる作品が少なくないのですから、やはり、自分なりの対話を作品と試みることは大切だといえるでしょう。

 つまり、私たちは、同じ作品に出会い続けていたとしても、そのたびごとに、そこに生じてくる対話は違うものであり、そういった意味において、すべての芸術作品はインターラクティブなのです。このような意味において、作品は鑑賞者が対話をすることをその成立のための必要条件としており、そういった意味において、鑑賞者はすでに作品の一部として存在しているのであり、私たちは、展示品の一部なのです。このことは、作品と鑑賞者が戯れることを取り入れることによって、より明確になるでしょう。

  ここで、「鑑賞者」であったはずの自分が実は「鑑賞されている」かも知れない、というアイデンティティーの揺らぎが生じてきます。私たちはもはや、「鑑賞者」というアイデンティティーに安住して展示会場に存在することができないのです。

 このアイデンティティーの揺らぎを顕在化させることが「私が見える?」における私の課題です。

 「私が見える?」はハーフミラーで作られた二つのドームからなっており、一つは中に入ると外が見えますが、外から中は見えません。この時、ドームの外にいる鑑賞者は、中にいる鑑賞者に見られている、すなわち「展示品」になっています。また、もう一つはこの逆になっています。もう一つのものは、中からは外は見えませんが、外からは中を見ることができます。この場合、中に入った鑑賞者は展示品の一部と化しているのです。

 また、この揺らぐアイデンティティーはそこに存在する他者の関わりから独立したものではありません。すなわち、「私を見ている誰か」、「私が見ている誰か」も、その揺らぐアイデンティティーの一部として必要不可欠なのです。

 作品、私、そして、そこにいる他者。すべてが渾然一体となっている空間において、もう一度、「私が見えますか? そして、あなたが見ている私とは誰ですか?」と問い直してみてください。

 

 

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