「三人展:そばに来て」について
菅波美穂
この展覧会はJapan2001のオフィシャルイベントとして企画・運営されました。しかし「日本的な」ものを紹介することが目的ではありません。
ほとんどの美術館に於いては、私たちは展示物にさわることができません。これは、作品の保護、という観点から考えた場合には極々当たり前のことです。しかし、このような「さわらないでください」文化が「見える」ことを中心として形作られていることは、今まであまり問題とされてきてはいませんでした。最近、さまざまな人によってこのような「視覚中心主義」が批判されるに及んで、日本における「Able
Art」やO美術館、「メビウスの卵」のような一つの新しい動きが生まれました。また、英国に於いてはリーズ美術館における「感覚を通じての旅」展、リバプール・テート美術館における「新しい光のもとの彫刻」展など、さまざまな形の展覧会や作品が世に問われだしました。
この展覧会は、最近少しづつ見直されつつある「さわらないでください」文化への批判を日本において実践してきたアーティストと、イギリスにおいて実践してきたアーティスト、そして、それを積極的に支援しているポタリー美術館のキュレーターの協力によって実現されました。
一つの試みは田崎由希子のプロジェクト「トランスレーション」です。ここで彼女はさまざまな人と協力ながら写真、ビデオを撮り、私たちの視覚がいかにすべての情報の源ではないかということを提示しようとしています。
しかし視覚中心主義を批判し、見ること以外の作品の楽しみ方を考えた場合、さまざまな問題が生じてきます。これらについては、ジュリア・カシムさんがその著書の中で詳しく述べておられるので、ここでは詳述しません。しかし、すべての問題点は、どのようにして作品を保護するのか、ということにつきます。さわることによって作品の表面が傷ついたり、また、小さなものだと盗まれる危険も出てきます。盗まれることに対しては、台に固定することなどでその問題点を解決することは比較的簡単にできます。
しかし、作品の表面を保護することに関しては、難しいものがあります。どんなに指輪を外してください、丁寧に触ってくださいと、掲示をしても、すべての人がその掲示を読むわけではありません。そして、すべての人がそうしていることをチェックすることは、一般に公開されているスペースである限りは不可能です。また、作品は手荒な取り扱いによってのみ、ダメージを受けるわけではありません。いかに汗をかいてはいないように見えていても、私たちの手のひらは常に汗をかいているからです。この汗に含まれる塩分、そしてその酸性の性質によって、作品の表面は簡単にダメージを受けますし、ある種の石がひび割れを起こす原因にもなるのです。
しかし、作品に触れる、ということは展覧会の会場に大きな空間的変化をもたらすのです。「たかが、さわるくらいで」というかもしれませんが、作品との距離感の縮まり方は、初めて天体望遠鏡を覗き、月を見たガリレオのようなものではないでしょうか。アーティストや作品は遠くにあるものではなく、そばにあり、同じ空間に存在しているのだ、と感じさせてくれるのです。ある意味では、芸術に対する神話の否定でもあるのです。触る、という単純な行為によって、展覧会場は芸術の「信者」の宗教的崇拝の場ではなく、誰もが作品を楽しむ場に変質を遂げることができるのではないかと考えています。また、触ることによって、展覧会場を、今までそこから阻害されてきた人々、視覚障害者や子供たちに対して開放することもできるのではないかとも考えたのです。
芸術崇拝のための閉じられた空間から、楽しむための開かれた空間への変化への試みは、作品の保護に関係して生じてくる実務的問題を乗り越えてでも取り組んでみたい、と私たちに思わせるだけの魅力をもっていました。
伊勢利枝は、彼女のコラージュを半透明の和紙で覆うことによってこの作品の保護の問題を解決しました。表面の和紙は破れたり、汚れたりした場合には、簡単に張り替えることができます。この和紙によって、すばらしい視覚効果が生まれていることはもちろんです。しかし、やはり、触れることができる、ということは、非常に大きな魅力のようでした。私のワークショップに参加した視覚障害を持つ女性はコラージュの触感のみではなく、和紙の触感をも楽しめると、感激をしていました。
私の彫刻は、砂岩と石灰岩によってできています。これらの石は汗による腐食には比較的影響を受けません。しかし、やはり手垢などによって汚れが付着してしまいます。この場合は、消極的かもしれませんが、「あきらめる」ことにしました。作品を売ることを考えると、このようなことがおきては困るわけですが、売るつもりでなければ、汚れても構わないわけですから(もちろん、ほしい方がいらっしゃれば、売りますけれど)。
消極的ではあったかもしれませんが、このように自分の作品を商品ではない、と考えることは、私にとってはコペルニクス的転回でした。もちろん、作品を売らなければアーティストが生活をすることができなくなるわけですから、ある意味では「作品は商品ではない」ということは、非常な自己矛盾を含んだ表現です。しかし、さまざまな人の理解と協力を得て、この考えを一歩進めたプロジェクト「Have You Touched Your
Hands?」をこの展覧会のために実現させられたことは、本当に幸運でした。
これは、ワークショップを主体としたプロジェクトです。参加者はワークショップにおいて自分の手の型(mould)を作ります。そこに石膏を流し込んで手の石膏型を作ります。この石膏型を展示するわけです。展覧会の終了後は石膏型は参加者に返します。つまり、私の手元には作品は残らないわけです。展示されている石膏型はもちろん触ることができます(石膏型はプラスチックで表面を保護されています)。この作品が、アーティストの行動の帰結としての作品(=商品)の展示ではなく、今も続いているある一つの流れの過程であるととらえていただければ、私としてはこんなにうれしいことはありません。しかも、この流れは、海に流れこむ川のように、その帰結した形は混沌の中に溶け込み、二度と繰り返すことはできないのです。ですから、商品としても成立し得ないわけです。しかし、この作品が参加者や私自身、そしてこの過程に参加した人々の記憶の中に残響を残すことができれば、と願っています。
この、記憶の中にのみ存在し続ける作品は、伊勢利枝によって提示されました。彼女の「光の劇場」シリーズは、一つの与えられた外見を持っていません。会場を訪れた人々は、彼女の作品と対話(interact)をすることで、初めてその作品の世界に入っていくことができます。詳しい説明などは彼女のホームページを見てください。
記憶の中にのみ存在する作品と、その作品との対話というテーマは、さらにもう一つの重要な局面をこの企画に提示してきました。つまり、もし、観客との対話によって作品が初めて作品として成立し得るのであれば、すなわち、作品の一部として観客が必要条件として要求されているとすれば、観客はもはや「観客」ではなく「展示(spectacle)」の一部ではないのか、ということです。
展覧会場に於いては観客は観客であり、作品は作品であるということが厳然たる現実であり、それに対して疑いを持つことは少ないと思います。しかし、どのような作品であっても、「鑑賞される」ことを目的としているのです。また、たとえ作家自身が何らかの意味付けを作品に対して行っていたとしても、作品と出会う経験や、作品から受ける感銘は、それぞれの個人や、その時々によって、常にユニークなものであるはずです。
この点は、伊勢利枝の光の劇場シリーズの中の「一期一会」によって明確に示されています。すなわち、絵の前に立つ観客の身体運動とその二度と繰り返されることのない「瞬間」は一時的に記録されるかもしれないが、永遠のものではないわけです。会うたびに、同じかもしれないが、違う作品に私たちは出会続けることになります。
ここでの観客は単に「鑑賞者」としての存在ではなく、作品の成立にとって必要不可欠な存在となっています。
私は、「Can You See Me?」においてこの観客と展示品に分割されない展覧会場のあり方に取り組んでみました。ハーフミラーで作られた二つのドームは、一つは中から外は見えませんが、外からは中が見えます。また、もう一つのものはこの逆になっています。ここで、このドームの中に入ったり、また、ドームの中にいる人から見られたりしている「鑑賞者」は、鑑賞しているだけではなく、鑑賞されてもいるのです。
展示物と鑑賞者を分割しない空間を作る一つの試みとして、私たちはさらに、さまざまなワークショップをこの展覧会の一部として行ってきました。伊勢利枝のワークショップ「狐火」は、展覧会場を訪れた人々に写真を撮ってもらったり、彼らの写真を撮ったりし、その写真を作品の一部として展示することによって、作品の完成の過程に鑑賞者が参加できるようにしました。私のHave
You Touched Your Hands?も、展覧会が始まってからも、会場でワークショップを開き、鑑賞者の制作への参加がある程度実現できるようにしてみました。また、沖縄や東京の三線演奏家の方たちの協力を得て、音楽のワークショップ「作って、聞いて、弾いてみて」を実現させることができました。
視覚中心主義に対する批判から始まり、記憶に語り掛ける作品、対話を中心とする作品、そして、鑑賞者と展示物の分割に対するチャレンジ。この展覧会を通してさまざまなテーマを模索してきました。もちろん、この展覧会ですべての課題に対してきちんとした回答ができたわけではありません。私のすべてはいまだに不完全であり、未熟であると思います。しかし、これらのことに対する私の模索は既に始まってしまったのです。そして、このような試みに対して多くの方が理解を示してくださり、応援してくださったことについては、本当に幸運だったと思います。
ここで、すべての人に感謝を書いていては切りがありません。しかし、特に、ポッタリー美術館のキューレーターのルシアン・クーパーさんは、この展覧会の目指すところをよく理解してくださり、私たちのさまざまなわがままを聞き入れた会場作りをしてくださいました。また、ポッタリー美術館の教育課のジェーン・フィネレンさんは、さまざまなワークショップの実現を可能にしてくださいました。いっしょに展覧会を実現させた伊勢さん、田崎さん。ワークショップの運営に協力してくださった皆さん、参加してくださった皆さん。さまざまな援助を与えてくださった方々。そして、多大な迷惑をかけっぱなしのテリー、イアン、HS、あまね。
この展覧会は、みんなのものです。どうも、ほんとうに、ありがとう。